エスパルスに関連した掲示板などを眺めていて、所長がとても残念に思うのは、ゴトビ元監督、大榎元監督などの評価について、清水のサポさんたち同士が罵り合っていたりすることである。当S研では、そういう論争には一切コミットしないことにする。根本的に無意味であり、むしろ有害だと思うからである。

 周知のように、ゴトビ元監督については、神格視するようなサポさんがいるかと思えば、嫌悪感を抱くサポさんもいる。そりゃ4年半も監督をやった人なので、所長も彼の手腕について、自分なりの評価というものはある。しかし、今さらそんな過去のことを蒸し返して、自分と意見の違う人を論破しようなどとは、まったく思わない。監督の手腕や人間性などというものは、客観的な評価は難しいのだから、論争は絶対に収斂しない。確実に「神学論争」に陥り、清水の団結にヒビを入れるだけである。もしも、今いる監督をどう評価するかということであれば、サポーターの世論がクラブの方向に影響を与えることもあるわけで、サポが自分の意見を表明することには一定の意味があると思うけど、とにかく、もう動かせない過去を題材に、不毛な神学論争で罵り合ったりすることは、見苦しいし、有害でしかない。そんなことをしたら、ライバルを利するだけである。

 たとえば、ゴトビ氏や大榎氏が甲府さんあたりを率いて、J1でリーグ優勝したら、「やはり名将だったんだ。いけないのは清水の選手の側だった」ということがはっきりするだろう。逆に、浦和のような、誰が見ても戦力が整っているチームの監督に就任しながら、そのチームをJ2に降格させてしまうようなことがあったら、手腕がなかったという事実が白日の下にさらされる。しかし、現実には、どちらの極端なシナリオも、生じそうにはない。そうである以上、元監督に手腕があったか、なかったかなどというのは、永遠の水掛け論にしかならない。

 所長の持論だが、サッカーの監督の手腕というのは、絶対値では図れないものである。ある特定の状況、戦力、ミッションの中では適任だけれど、別の条件では上手く行かないという指導者もいる。監督としての手腕で、A氏が50点、B氏が100点などという話は成り立たない。田坂前監督のことを悪く言う人も多いが、2015年の途中から清水を率いて残留させるなどということは、モウリーニョでも不可能だったはずだ。

 過去の監督の手腕や人格を攻撃するのは無意味だが、ただし、クラブとして、歴史の教訓を学ぶことは大切である。清水が誤ったのは、特定の監督の手腕や人格というよりも、クラブとしての固有の哲学や継続性の欠如と、マネジメントの稚拙さだった。ゴトビ氏のサッカーだって、大榎氏のサッカーだって、両方アリだとは思う。しかし、トップチームの監督がオランダ流ワイド攻撃サッカーを志向しながら、ユースの監督はそれとは真逆の哲学を抱いてトップチームのやり方を疑問視していたというのは、クラブとして失格だろう。そして、後任者が前任者の否定からチーム作りを始めざるをえない状況を作ってしまったことこそが、崩壊を招いた。マックからウィンドウズに急に切り替えたようなもんだから、不具合が多発するのも当然だ。ゴトビ氏の「カリスマ」や、大榎氏の「レジェンドとしての求心力」といったことに過度な期待をかけ、現実を直視できなかった。

 崩壊の本質は、クラブとしてのマネジメントの失敗だった。所長は、クラブはその反省に立ち、再生への道を着実に歩み始めてくれていると信じたい(今般の経営方針表明で、育成からトップまでの一貫した指導というような方針が掲げられたのは、大変に心強い)。だから、過去の監督についての不毛な論争には、一切コミットしない。

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